登録有形文化財一号停留所

一号停留所とは

 一号停留所は、長濱検疫所(横浜検疫所の前身)における上等船客用の停留施設として、明治28年(1895年)3月に完成しました。
 建物は、ほぼ東西に長く、南面の両端が突出したコの字型、左右対称の平屋で、当時は、東京湾を見下ろす高台に広い芝庭を前にして建っていました。
 所内には8つの部屋(一室2人用)、食堂及び談話室があり、感染症の疑いがある方々が一定期間滞在していました(建坪は127.25坪(約420m2))。
 長濱検疫所の建物の中でも、特に明治の面影を残すものとして評価され、現在は、「検疫資料館」として検疫業務等に使用した資料の展示を行っています。

参考:「上等船客」とは当時の旅客船賃「一等・二等」などの利用者です。

<一号停留所>

一号停留所

平成30年2月5日 海側より撮影

参考

吉田鋼市横浜国立大学名誉教授による「『一号停留所』の歴史的価値について」(平成27年)より抜粋

○長濱検疫所は、日本最初の検疫施設である長浦消毒所を引き継いだ日本の検疫施設最古の遺構の一つであり、その日本の検疫史上に占める位置は甚だ大きい。

○検疫資料館(一号停留所)は、長濱検疫所のなかで最も建築意匠的に重要な施設であり、長濱検疫所の建築の粋がこの建物に収斂して残されており、それはまた、富士屋ホテルや日光金谷ホテルや奈良ホテルと並んで日本の洋風ホテルの最初期の遺構とも目されるものである。

○それらが和風意匠を主眼としたホテルであるのに対して、横浜検疫所の検疫資料館の建物はまったくの洋風であり、純粋に洋風の最初期のホテル遺構に類するものとして、建築史上に占める価値は大きい。

明治28(1895)年完成時の長濱検疫所

 海上から見た長濱検疫所です。左側から伝染病棟(屋根)、伝染病院事務所、官舎、人夫及び船員付属賄所。山を挟んで納屋、倉庫、二号浴室、検疫所事務所及び一号浴室(上等船客用)が見えます。また、海上には患者消毒人等送迎の伝馬船と思わせる船や検疫所事務所の前につながる既消毒者用の桟橋が見えるほか、写真の一番右側(矢印)に「一号停留所」が見えます。

<長濱検疫所全景>

長濱検疫所全景

出典:学校法人北里研究所所蔵細菌学雑誌(明治29年11月号巻末)

 長濱検疫所の業務としては、完成後の明治28年4月10日、金州(現在の中国遼寧大連市)及び澎湖島地方(現在の台湾)においてコレラが流行したため、内務省より、流行地域からの船舶に対して横浜港に航行する船舶に対しての検査が求められ、それに対応したのが最初です(同年4月10日内務省告示第54号)。次いで、同年7月30日「台湾及び朝鮮国諸港」(内務省告示第97号)も検疫の対象となり、同年12月17日まで続きました(同年12月16日内務省告示第151号)。その後、明治32年(1899年)5月までは必要に応じて開閉所していました。

関東大震災後の長濱検疫所

 大正12年(1923年)9月1日南関東を中心に死者10万人を超える関東大災害が発生しました。この震災によって長濱検疫所の施設などは倒壊などの被害を受けましたが速やかに復旧工事等が開始され、翌年、大正13年(1924年)には、全ての施設が原形のように復元されました。また、災害後、9月4日には検疫業務を行っています。

 一号停留所の被害状況は、「大正12年9月1日 震災被害調査票控」(長濱検疫所)によれば、「小傾斜破壊 修理可能なもの」とあり、復旧工事に関しても、大正13年(1924年)6月4日起案の「長濱検疫所一号停留所其他復旧工事設計書」に「一号停留所改築」と書かれており、古材等も使用したようです。同年6月23日に請負人と契約を交わし、同年10月10日には「竣功届」が請負人から神奈川県知事に提出されています。

 また、検疫所事務所を見ると「大正12年9月1日震災被害調査票控」では「傾斜 大破壊」とされ、大正13年2月25日起案には「長濱検疫所事務室其他新改築工事設計書」(事務所を事務室と表現)とあり、「新築」であったことが推察されます。震災後の検疫所事務所の写真を震災前のものと比較すると、窓の数が変わり、正面2階のペディメント(切り妻屋根下部)に葡萄模様の装飾が設けられるなど、その変化がお分かりいただけると思います。

<震災に伴う復旧工事後の写真>

復旧工事後 長濱検疫所

写真中央(向かって)左の二号浴室は震災前より約30坪建坪が減少しているほか、検疫所事務所は屋根や壁等が震災前と異なる造りになっています。
また、将来停留所等の拡張が必要となる可能性を考慮し、二号浴室と検疫事務所前の海岸、約3,000坪を埋立造成しました。

葡萄模様のペディメント

ペディメント(切り妻屋根の下部)に設けられた装飾

資料

<関東大震災復旧工事の一号停留所改築の図面>


一号停留所改築の図面

関東大震災復旧工事の際に作られた、一号停留所の設計図です。
右上は小屋組の詳細図、中央上は小屋伏図、左上は床伏図、左中は基礎伏図、左下は平面図、中央は食堂の南北方向の断面図です。

出典:神奈川県立公文書館所蔵「大正12 年~昭和2 年港務部営繕管財課」

一号停留所改築の図面

こちらも関東大震災復旧工事の際に作られた、一号停留所の設計図です。
右上が停留所全体の平面図、右下が南北方向の断面図で、出窓が設けられたことが見てとれます。
また、壁に取り付けられた窓の内側には両開き式のカーテンがあり、その丈はカーテンレールから床上までありました。復旧後に食堂を写した写真にも、実際にかけられていたカーテンが見られます。

出典:神奈川県立公文書館所蔵「大正12 年~昭和2 年港務部営繕管財課」

<関東大震災後の内部の様子>


内部の様子(食堂)

食堂

検疫所の開設当時は、専任のコックを雇い、この食堂で停留者に料理等を提供していたようです。

内部の様子(談話室)

談話室

大正から昭和初期にかけて、和洋のレコードを停留者に楽しんでいただくなどして停留中の気持ちをほぐしていたようです。

内部の様子(廊下)

廊下

東西に長く続く廊下の様子です。植物が置かれていました。
なお、廊下の左側が海側で、廊下の右側が居室です。

一号停留所の変遷

 停留者は、晴れた日には、広い芝庭などを散歩したり、防波堤や東京湾を眺めたりしていたようです。
 一号停留所の外壁が「白色」になったのは、戦後、GHQ が接収していた際に、米軍が白ペンキを塗ってからと伝えられています。
 また、昭和22年(1947年)5月から昭和30年(1955年)7月までの間は、海外引揚者等の宿泊施設にも使用していました。

<昭和28(1953)年:外部の様子>

内部の様子(食堂)

海側より撮影:庭に芝や多行松などが茂っていました。

内部の様子(談話室)

山側(一号停留所)より撮影:防波堤の先に東京湾が広がり、帆船などが見えます。

<昭和28(1953)年:内部の様子>

内部の様子(食堂)

食堂

内部の様子(談話室)

廊下

内部の様子(談話室)

停留室

<昭和46(1971)年:外観>

外部の様子(海側より撮影)

海側より撮影

外部の様子(山側より撮影)

山側より撮影

<昭和59(1984)年・平成6(1994)年:外観>

外部の様子(海側より撮影) 昭和59年

海側より撮影(昭和59年)

外部の様子(海側より撮影) 平成6年

海側より撮影(平成6年)

<現在:外観>

外部の様子(現在)

平成30年1月18日 海側より撮影

<現在:雪をかぶった一号停留所>

外部の様子(雪をかぶった一号停留所)

平成30年1月23日 海側より撮影

<現在:一号停留所正面部分のおもむき>

一号停留所正面部分

平成30年3月15日 海側より撮影

参考文献

検疫制度百年史(厚生省公衆衛生局)
検疫制度100周年記念誌(昭和54年7月(財)日本検疫衛生協会)
「一号停留所」の歴史的価値について(平成27年 横浜検疫所)
細菌学雑誌(明治29年11月号巻末)(学校法人北里研究所所蔵)
大正12年~昭和2年営繕管理課(神奈川県立公文書館所蔵)
横浜検疫所長浜措置場建築調査記録(1986年3月建設省関東地方建設局営繕課)