写真に見る長濱検疫所の変遷

明治時代(創建時)

 海上から見た長濱検疫所です。左側から伝染病院(屋根)、伝染病院事務所、人夫及び船員附属賄所等。山を挟んで納屋、倉庫、二号浴室、検疫所事務所、一号浴室(上等船客用)、附属舎や一号停留所(感染症の疑いがある上等船客用)が見えます。
 また、海上中央では未消毒者の上陸用の桟橋を造っているほか、検疫所事務所前には既消毒者の乗船用の桟橋が見えます。

参考:「上等船客」は当時の旅客船賃「一等・二等」などの利用者です。

長濱検疫所(創建時)

出典:『清水建設150年』清水建設株式会社

明治40年代の長濱検疫所

 海上から見た長濱検疫所です。波も穏やかで、海面に検疫所の建物等が写っています。
 左側から伝染病院事務所、人夫及び船員附属賄所等。山を挟んで倉庫、二号浴室、検疫所事務所、一号浴室(上等船客用)、附属舎や一号停留所(感染症の疑いがある上等船客用)が見えます。
 二号浴室と検疫所事務所の前には物置があります。
 また、海上、正面に未消毒者の上陸用の桟橋と、右側に既消毒者の乗船用の桟橋が見えます。

海上から見た長濱検疫所(明治40年代)

大正時代の長濱検疫所

 海上から見た長濱検疫所です。

 左側から伝染病院事務所、人夫及び船員附属賄所。山を挟んで二号浴室)、検疫所事務所、一号浴室、一号停留所が見え、二号浴室の前には未消毒者用の桟橋が見えます。

海上から見た長濱検疫所(大正時代)

出典:『神奈川縣寫眞帖』(大正2年) 神奈川県立公文書館所蔵

【参考】大正5年の長濱検疫所布哇丸事件

 大正5年(1916年)7月27日、香港を出航しタコマに向かっていた大阪商船会社所有の米国航路船「布哇丸」(ハワイ丸)において、神戸から乗船した船客が横浜港に入港する際に数回嘔吐しました。

長濱停泊中の布哇丸

出典:『大正5年神奈川縣虎列刺流行誌』 神奈川県立公文書館所蔵

 検疫官を派遣して確認したところ、真性コレラに罹患しており、その船客は2日後に死亡しました。

 そのため、同船を長濱検疫所へ回航して乗員・乗客全てを収容(乗員133人、乗客189人等多数収容)するとともに、船を消毒しました。8月9日に停留を解きますが、その間、患者44人、死者10人を出しました。

長濱停泊中の布哇丸

出典:『大正5年神奈川縣虎列刺流行誌』 神奈川県立公文書館所蔵

大正時代、関東大震災後の長濱検疫所

 関東大震災後の長濱検疫所については、「長濱検疫所之圖」(大正14年10月1日発行、横濱税関港務部)の中に、「大正12年9月1日の大震災に依り旧来の木造の建物は倒壊して到底修繕の見込なきを以て殆んど全部改築の上原形の如く復元せしめたり。」という記載があります。

 また、神奈川県立公文書館所蔵の『大正12年~昭和2年港務部営繕管理課建物』等によると、古材等も使用して改築した施設のほか、新築されたと思われる施設もあったことが分かります。

大正時代、関東大震災後の長濱検疫所

【参考】創建当時と関東大震災後の長濱検疫所の比較

 明治28年に完成後、大正12年9月の関東大震災で建物は倒壊などしましたが、翌年には全ての施設が原形のように復元しました。
 創建当時と震災後の写真を見比べると、検疫所事務所や二号浴室などでは、屋根や壁等が震災前と異なる外観となっていることが分かります。

創建当時と関東大震災後の長濱検疫所の比較

昭和時代の横浜検疫所長濱措置場(全景)・埋立てなど(地域の変化)

<昭和26(1951)年頃>

昭和26(1951)年頃

<昭和58(1983)年>

昭和58(1983)年

参考文献

検疫制度百年史(厚生省公衆衛生局)
検疫制度100周年記念誌(昭和54年7月(財)日本検疫衛生協会)
明治27年8月11日内務省告示「衛甲第40号」(国立公文書館)
新聞『日本』(明治28年4月2日)(日本新聞博物館)
神奈川県公報(神奈川県立公文書館所蔵)
関東大震災写真(国立科学博物館所蔵)
昭和21年特殊物件処理委員会関係綴計画課(神奈川県立公文書館所蔵)
帝国服制要覧(神奈川県立公文書館所蔵)
大正12年~昭和2年港務部営繕管理課(神奈川県立公文書館所蔵)
清水建設150年(清水建設株式会社)
神奈川縣寫眞帖(神奈川県立公文書館所蔵)
大正5年神奈川縣虎列刺流行誌(神奈川県立公文書館所蔵)
神奈川縣港務部要覧(神奈川県立公文書館所蔵)
大正大震火災誌(大正15年7月神奈川縣警察部)
横浜検疫所長浜措置場建築調査記録(1986年3月建設省関東地方建設局営繕部)