浦賀引揚援護局から横浜援護所へ
横浜援護所は、太平洋戦争終結に伴う引揚者※の援護や検疫業務を行っていた浦賀引揚援護局(昭和20年(1945年)11月~昭和22年(1947年)5月)に代わる施設として、昭和22年5月1日「引揚援護院横浜援護所」の名称で設置されました。南方からの分散引揚者の受入れや送還業務などに備えた小規模な施設としての役割を果たし、一定の目的が達成した昭和30年(1955年)7月11日に廃止され、その業務は横浜検疫所が引き継ぎました。なお、歴代の所長は横浜検疫所長が兼務していました。
※「引揚者(ひきあげしゃ)」とは、戦時中海外に居住などし、終戦に伴って日本に帰国した方々をいいます。
横浜援護所の歴史
①昭和22年5月1日 「引揚援護院横浜援護所」設置
②昭和23年5月31日 引揚援護庁設置令公布により「引揚援護庁援護局横浜援護所」に改称
③昭和29年4月1日 引揚援護庁廃止に伴い、厚生省の附属機関たる「援護所」として発足
④昭和30年7月11日 厚生省設置法の一部改正に伴い廃止
なお、以降の説明では「横浜援護所」の名称で統一します。
横浜援護所では、昭和22年(1947年)から29年(1954年)の間、陸軍1,429人、海軍298人、邦人3,109人、合計4,836人の引揚者に対して、「引揚援護」(日本への引き揚げた方々関する援護等)を行いました。引揚地別の引揚者の数は、米本土893人、南米844人、華中(現在の中国揚子江と黄河に挟まれた地域)595人、ハワイ447人、比島(現在のフィリピン諸島)422人の順になっています。
引揚援護の概要
海外で終戦を迎えた660万人の邦人は、海外各地の連合国軍又は相手国の管理下に抑留されながら集団で難民生活等を続け、この間幾多の苦難を経て引揚船により帰国されました。帰国に当たっての援護等は、昭和27年(1952年)4月までは、連合国総司令部の指令と上陸地に常駐する連合国軍監督将校の直接指揮の下、各地方引揚援護局が対応しましたが、サンフランシスコ平和条約発効後は、日本政府の自主的施策をもって処理することになりました。以後、各地方引揚援護所が、検疫、引揚者の宿泊・給食、引揚げの手続、応急必需物資や援護金の支給、引揚者と留守宅の連絡、引揚列車による落ち着き先までの世話といった業務等を行っていました。
引揚港に到着した引揚船は、港内の検疫錨地で①引揚船の運航報告書の点検、②海外の出港地における伝染病流行状況、③伝染病患者・疑似者の有無の検診、④船内衛生状態等の検疫を行い、異常がないと認められたときは、連合国軍監督将校の許可を得て入港し、引揚者を上陸させました。
上陸後は、引揚者の携帯品を消毒してから検診を行い、健康な方は、入浴後に各種予防注射をして検疫が終了となりました。なお、「引揚検疫」は、連合国軍の指令により、従来の海港検疫の内容だけでなく、結核、炭疽等全ての伝染病の検診やしらみの有無に及ぶ広範かつ厳重なものでした。特に、コレラなどの感染地域からの引揚者であったり、大集団が短期間にしかも不衛生な状態で移動し入国したりした場合など、コレラ等の伝染病に対する検疫は最も重視され、引揚者全てにDDT消毒薬を使用しました。
所蔵:中島三郎助と遊ぶ会
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
昭和21年(1946年)3月29日、広東(現在の中国広東)からの引揚船内でコレラが発生・蔓延し、患者21人(うち死亡3人)、疑似者20人を乗せ、同年4月5日に浦賀港に入港しました。広東がコレラの流行地であったため、その後の引揚船が入港するなか海上隔離が行われました。一時、浦賀引揚援護局では隔離者が7万余人に達し、患者等の食糧、飲料水の確保・提供は、当時の窮迫した食糧事情の下では重大な問題でした。その後、施設及び衛生資材等が整備されたことから、同年5月4日には停留船隔離者が上陸することになりました。汚染船は22隻にも及び、患者483人(うち死亡72人)、保菌者191人、疑似者345人で、大部分が広東、海防(現在のベトナム北東部)方面からの引揚船でした。
広東、海防方面から汚染船舶が引き続いて入港したことから、浦賀引揚援護局に「コレラ防疫本部」が設置されました。当時、引揚検疫は浦賀引揚援護局に属する浦賀検疫所が行っていましたが、施設・職員が不十分な状態であったため、この応急な状況に対し、東大、京大、慶大、慈恵大、千葉医大、日大及び昭和、東京、千葉、横浜各医専の教授、学生、東京第一、第二、相模原、久里浜各国立病院の医師、看護師、日赤看護師、復員者中の有志などの献身的な協力を得て、必死に防疫に従事したと伝えられています(注:組織名等は当時の呼称)。
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
出典:『浦賀港引揚船関連写真資料集』横須賀市所蔵
横浜援護所で行われた業務
横浜援護所は浦賀引揚援護局の廃止を受けて昭和22年(1947年)5月1日に設置され、南方からの分散引揚げの受入れや送還業務などの業務を担いました。記録に残されている主な業務は、次のとおりです。
横浜援護所が「マヌスからの帰国者(受刑者、釈放者)の受入れ」を行った際の、帰国時の新聞記事です。
引揚船は、横浜港・大桟橋に入港しました。
連合国軍最高司令部(GHQ)からの指令に基づき、日本を経由して帰還するドイツ人等の援護業務が横浜援護所の業務でした。
昭和24年(1949年)11月26日、ソ連船によって呉港に上陸した満州(現在の中国東北部)、関東州(現在の中国大連の一部地域)にいたドイツ人(65人)、ハンガリー人(3人)及びポーランド人(2人)の合計70人(戦時中、満州等で重工業に携わっていた専門技術者等)の受入れを横浜援護所が行いました。
以下は、これらの方々の日本滞在中における施設提供等(応急援護)の内容です。また、横浜援護所の職員の感想もあります。
(出典:『昭和24年実施日本経由帰国獨人送還業務書類』横浜検疫所所蔵)
Ⅰ 連合国軍最高司令部(GHQ)参謀第1部(GI)から「横浜援護所」への事前指示等
1. | 日時:昭和24年(1949年)9月21日 | ||
(1)主題: | 大連(現在の中国大連市)から引揚げる外国人の取扱い | ||
(2)概要: | ①外国人はドイツ人約70人、他に国籍で約20人、②移送先は横浜援護所を指定、③横浜援護所においては診断その他の医療に当たるなど、③面会は行えない、④所内停留は最短3日最長2週間、⑤外国人の外出はGHQによる調査終了後、⑥輸送・給食は日本政府に委せる、⑦本措置に係る経費は補償することなど | ||
2. | 日時:同年11月21日 | ||
(1)主題: | ドイツ人収容について | ||
(2)概要: | 11月23日ソ連船でドイツ人70人が大連から呉港に入船する。①約70人のうち75%は婦人・子供である、②検疫・税関の手続は横浜に移して済ませる、③長浜へは呉から汽車で移動し、横浜駅にて引き取る、④横浜援護所での滞在は1週間から2週間の予定、面接は禁止、⑤給食については過去の受入れ等を参考にすることなど |
<ドイツ人等の応急援護使用経費>
ドイツ人等を収容した施設等の図です。
①は宿舎で、第一号宿舎(検疫所一号停留所(現在の検疫資料館))には12室(4人部屋が8室、3人部屋が3室、2人部屋が1室)に43人が宿泊し、第二号宿舎(検疫所二号停留所)には12室(3人部屋が4室、2人部屋が7室、1人部屋が1室)に27人が宿泊しました。
②については、検疫所一号浴室の未消毒待合室を食堂に、中央のシャワーや浴槽をそのまま入浴等に利用し、右側の既消毒待合室は米軍が調査室に利用していました。
③は事務所です。所長以下職員が引揚援護庁など関係機関との連絡等を取っていました。
④の検疫所二号浴室は、送還者や援護所の倉庫として利用していました。
⑤は渡り廊下です。各施設が渡り廊下でつながっていました。
ドイツ人等は11月27日に横浜援護所に到着後、短い人で11日間、長い人で23日間滞在されました。
また、70人が到着した11月27日の献立に関する資料が残っています。
<ドイツ人等送還業務日程表>
<献立表の一例(11月27日分)>
結果として、横浜援護所に11月27日に到着した70人のドイツ人等のうち、一番早い方で12月7日に5人が退所しています。5人のうち、ドイツ人2人は日本国内に居住するために退所、また、ハンガリー人3人は、神戸港からオーストラリアへ向かいました。以後、8回の退所があり12月19日をもって送還業務は終了します。
なお、ドイツ人等の送還の最初は昭和22年(1947年)2月で、1,069人が輸送船「マリン・ジャンパー号」で帰国しました。続いて第二次が同年8月に807人、第三次は昭和23年(1948年)3月に27人が羽田空港から飛行機で祖国に向かいました。
送還者の様子について『戦時下 日本のドイツ人たち』(2003年/上田浩二、荒井訓 著)によれば、送還したドイツ人の発言が次のように書かれています。「私は47年まで日本にいたが、アメリカ軍によって本国に送還された。このときに持っていくことが許されたのは、自分が持つことのできる範囲だけだった。それ以上のものはすべて没収された。お金に関しても同じだった。一人につき750円、当時の換算率で500マルクほどが与えられた。そのうえ一年後に[通貨改革によって]このお金の価値は10分の1になってしまった。」と厳しい体験を語っています。本国への送還は第一次より第二次の方が緩和されていたようです。昭和24年の事例は送還が始まって2年が経っていますので、大分緩和されていたことが推測できます。
横浜援護所での出来事に関しては、引揚者や送還者の感想が『続・引揚援護の記録』(1955年/厚生省引揚援護局 編)の中で、次のように書かれています。 「風光めいびという言葉にふさわしい環境は、外界から切り離された別天地である。心傷ついて故国に辿りついた引揚者は、ここにどれだけ心なごむ思いをしたことであろうか。長年日本に住みついて平和にすごした多くの外国人たちが、心ならずも、日本を離れなければならない事情に逢着し、日本における最後の夜をここですごし祖国へ帰っていった。ある者は、ここの類いまれな環境の美しさに『魂の平和をとりもどした』と告白している。」
この『長濱』の地は、明治の時代から国籍に関わりなく多くの人々を受け入れ、傷ついた心を永年にわたり癒し続けてきました。しかし、時代の変化とともに歴史の表舞台から去りつつも、また、新しい時代の中で、しっかりその重みを刻み続けています。
参考文献
検疫制度百年史(厚生省公衆衛生局)
援護所史(厚生省・援護所 昭和30年3月)
続・引揚援護の記録(1955年厚生省引揚援護局)
引揚げ援護の三十年の歩み(昭和52年厚生省援護局)
氷川丸の写真(中島三郎助と遊ぶ会)
浦賀港引揚船関連写真資料集(平成16年横須賀市)
昭和28年8月8日 毎日新聞
昭和28年8月9日 朝日新聞
昭和24年実施日本経由帰国獨人送還業務書類 横浜援護所(横浜検疫所)
戦時下日本のドイツ人たち(2003年上田浩二、荒井訓)