長濱検疫所の成り立ちと変遷

長浦消毒所の移転決定

 明治11年(1878年)に設置された長浦消毒所は、日清戦争に伴う横須賀軍港拡張のため撤去されることとなり、明治27年(1894年)8月11日内務省告示「衛甲第40号」をもって、神奈川県久良岐郡金沢村大字柴(現在の横浜市金沢区長浜)への移転が決定しました。
 「衛甲第40号」には、「長濱二移シ」という記述が見られます。

長浦移転

出典:国立公文書館

長濱検疫所の建設

 明治27年(1894年) 9月から、「長濱消毒所」建設に伴う関係工事の請負入札の公示等が出されています(総工費は118,241円)。入札の結果、工事は清水建設が請け負い、翌年3月に完成。新聞『日本』(明治28年4月2日号)は「長浦消毒所の落成 豫て新築中なりし長浦の消毒所は此程竣功し内務省へ引渡されたり」と旧名で伝えています。

 その後、明治29年(1896年)3月には内務省令により長濱消毒所から「長濱検疫所」と改称、以後、神奈川県、横濱税関などと所管が代わっていきました。なお、明治32年(1899年)5月までは必要に応じて開閉所していましたが、それ以降は常設の機関となります。
 戦後は、連合国第8軍第24騎兵師団が施設の一部を接収していた時期もあり、また、昭和22年(1947年)5月から昭和30年(1955年)7月までは、海外引揚者等の受入れなどの業務にも使用されました。

<「長濱消毒所」建築に伴う関係工事請負入札の公告整理表>
公示日工事名称入札日備考
1明治27年9月28日長濱消毒所地先防波堤築造工事明治27年10月13日契約至らず
2明治27年10月20日長濱消毒所地先防波堤築造工事明治27年11月5日
3明治27年10月27日長濱消毒所桟橋海岸石垣その他土留石垣築立工事明治27年11月12日
4明治27年11月1日長濱消毒所仮建物払下明治27年11月16日
5明治27年11月9日長濱消毒所繋船浮標製造工事明治27年11月24日
6明治27年12月5日長濱消毒所新築工事 建坪985坪余 大小28棟明治27年12月17日
7明治27年12月5日長濱消毒所貯水池築設工事明治27年12月20日
8明治27年12月15日長濱消毒所繋船浮標附属品錨及び鎖供給明治27年12月28日
9明治28年1月25日長濱消毒所附属火葬室及び火葬釜築造工事明治28年2月9日
10明治28年2月9日長濱消毒所表門同両脇小土堤井丸太櫛その他溝際石垣及び生垣工事明治28年2月25日

※資料:「神奈川県公報」(神奈川県立公文書館所蔵)より作成

長浦消毒所の落成記事

出典:新聞『日本』(明治28年4月2日)日本新聞博物館所蔵

関東大震災による被害

 大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災によって、長濱検疫所の建物も倒壊などしましたが、翌年には全ての施設が原形のように復元しました。復元前後の主な建物の建坪数を見ると、建物によって若干の違いがあることが分かります。

 また、長濱検疫所は明治35年(1902年)港務部官制の施行によって神奈川県港務部の所管となり、桟橋際の港湾庁舎を本拠としていたほか、明治41年(1908年)には横浜港内を埋め立てて港務部見張所を建築し、番船に代えていました。 しかし、これらの施設等も関東大震災によって全潰し、また、職員が下敷きになるなど、震災によって多くの尊い命が失われました。

<検疫所敷地及び主な建物の坪数について>
明治43年9月大正14年10月
敷地坪数14,564坪23,097坪
一号浴室227坪221坪
二号浴室201.5坪171.50坪
一号停留所122.5坪145.75坪[118坪]
二号停留所96坪105.75坪[83坪]
検疫所事務所(2階建)68坪140坪(68坪)
汽罐室消毒罐室及び電気室140.5坪133.50坪
伝染病院事務所(2階建)73坪84坪(63坪)
伝染病院145.8坪125.75坪
細菌検査所  ※129.25坪29.25坪

※1:細菌検査所については、大正14年10月のデータがないため昭和10年6月のデータを引用しています。

※2:大正14年10月の坪数が明治43年9月と若干異なっています。例えば一号・二号停留所に付設した事務所分を加えていると思われるため、現在確認できる事務所の坪数を除いた建坪を[ ]に記載しています。また、2階建の建物は延坪数を記載しているため( )に建坪を記載しています。

<横浜電気軌道線>

横浜電気軌道線

出典:国立科学博物館所蔵

<横浜 桟橋入口付近>

横浜 桟橋入口付近

出典:国立科学博物館所蔵

戦後の混乱期

 戦後、混乱期の長濱検疫所に関しては、以下のような記録が残っています。

  • 終戦、GHQから引き渡された特殊物件について各都道府県知事が委託を受け、知事は特殊物件処理委員会に附議し具体的な処分を決定していました。
  • 神奈川県における「昭和22年(1947年) 2月28日元陸海軍所管土地建物に対する一時使用並びに払下申請書調」第14回委員会資料によると、①長濱検疫所構内の建物(自動車庫、消毒倉庫)と倉庫(1棟20坪)について、「倉庫及び事務所への使用のため」とする「払下げ」申請が2件ありましたがいずれも「保留」となっています。
  • また、長濱検疫所構内の「海軍軍需部倉庫隣接の海軍用地・倉庫敷地」について、関東海運局長が「海港検疫施設強化」のため払下申請を行い「払下げが決定」となっています。払下げの内容は「①停留所及び同所便所6棟、②停留所渡廊下1棟、③倉庫、守衛所、自動車庫5棟、④隣接倉庫及び附属工作物1棟」合計4,070㎡、敷地3,180坪です。
  • これらの施設は一号停留所・二号停留所等の施設や周辺の土地であり、払下げ後は、横浜検疫所が管理していました。また、同年5月から昭和30年(1955年)7月まで横浜援護所も使用しました。
  • 昭和22年2月28日から4月30日の「払下(使用)を許可せる物件調査」(第16回神奈川県特殊物件処理委員会)資料によれば、長濱検疫所が管理していた①石炭5屯、②大平釜13個、③蚊帳100個について、①は製薬会社に、②は学校給食用に、③は引揚戦災者援護用に、それぞれ払下げられています。

検疫所職員の制服

 検疫所職員の制服に関しては、文献資料や昭和初期の写真も残っています。

 最初の制服は、明治32年(1899年)7月21日「海港検疫官海港検疫医官海港検疫官補海港検疫医官補海港検疫員海港検疫医員服制の件」(勅令第350号)によって決まり、同年海港検疫医官補として長濱検疫所に勤務した野口英世も着用しています。

 その後、明治35年(1902年)3月29日には「港務部職員制服の公布」(勅令第128号)が出され、続く明治42年(1909年)3月13日の「港務部職員制服一部改正」(勅令第21号)によって、『帝国服制要覧』に掲載された「港務部職員制服」に見られる制服になりました。

 その後所管の変遷を経て、昭和23年9月13日「検疫官吏服制公布」(政令第287号)、昭和27年11月1日「検疫所長等服制」(厚生省令第44号)によって、より利便性等を考慮した制服が規定され今日に至っています。

港務部職員制服

出典:『帝国服制要覧』(明治44年)神奈川県立公文書館所蔵

<検疫員制服>

検疫員制服

大正13年「税関港務部職員服制」に基づく制服

<検疫官制服>

検疫員制服

昭和27年「検疫所長等服制」に基づく制服(昭和55年頃)

<検疫官制服>

検疫員制服

昭和27年「検疫所長等服制」に基づくもので現在の制服

<税務医官(昭和初期)>

税務医官(昭和初期)

<短剣>

短剣

注:左の写真とは関係ありません。

出典:神戸検疫所所蔵

検疫艇等の変遷

 検疫を行うための「検疫艇」は、以下のような変遷をたどっています。

  • 「海港検疫法」施行前(明治32年(1899年)以前)までは、長濱検疫所での検疫は長浜沖で行っていましたが、法施行後は横浜港界付近で行うこととなりました。本牧沖に検疫番船を停泊して船内で検疫を施行し、消毒が必要になったときに限って長浜に回航していました。検疫に用いる番船は、随時又は常時汽船を借り入れてこれにあてていました。
  • 明治41年に横浜港内に港務部見張所が建設されますが、それまでは商船学校から保管転換を受けた旧軍艦「孟春号」(排水量357トン、長さ44.5m、幅6.6m)を検疫番船として利用していました。また明治43年(1910年)には、患者や消毒人等を送迎するための伝馬船5艘と、水を運ぶ水船1艘を保有していました。
  • 大正12年(1923年)9月の関東大震災関係では、汽船「金川丸」(明治42年建造)と汽船「曙丸」が壊れ修理を行うとともに、汽船「大正丸」は類焼沈没しました。
  • 昭和以降、検疫艇は検疫官が検疫区域で「臨船検疫」を行うための輸送手段として、また患者等を埠頭まで搬送するために使用していますが、無線検疫の施行等により保有数が減少しており、横浜検疫所では「はごろも」を所属換えした後は所有していません。また、平成30年(2018年)2月末現在、検疫艇を保有している検疫所は全国になく、業務に必要がある際に賃借契約を行い船舶を利用しています。

検疫艇「はごろも」

検疫艇「はごろも」です。
平成9年(1997年)に進水しました。全長16メートル、総トン数15トン、最高速度24.92ノットでした。
「はごろも」は平成23年度に東京検疫所へ所属換えし、平成28年12月に売却されました。

汽船「金川丸」の、一般配置図改造案

関東大震災で被害を受けた汽船「金川丸」の、一般配置図改造案です。

出典:『大正12年~昭和2年港務部営繕管理課』神奈川県立公文書館所蔵

検疫艇の旗章の歴史

 検疫艇には、目印となる「旗章」が掲げられています。現在の旗章は、以下のような経緯で生まれました。

  • 明治12年(1879年)7月14日に施行された「開港虎列刺病伝染予防規則」(太政官布告第28号)第4条に「検疫信号を掲げたる番船」とあり、黄一色の旗を使用したのが始まりです。 
  • 明治35年(1902年)4月「内務省訓令」では、港務部用の船旗が定められました。白色地の上に赤色で、「Harbor master」(港長)の頭文字「H」をほぼ全体におよぶ大きさで配したものでした。ただし、この旗章は正確には検疫専用の艇旗ではなく、港長が検疫時に使用したもので、その港における権限者の象徴であり、その後の検疫艇旗とは少し趣の異なるものと解されます。 
  • 大正6年(1917年)には臨時開港検疫所用の船旗が定められていますが、先の港務部用船旗と同様と思われます。さらに、夜間は船旗とともに提灯を用いるよう定められています。また、この船旗は、検疫実施機関の所管が大正13年(1924年)税関、昭和16年(1941年)海務局、昭和18年(1943年)海運局へとそれぞれ移管した際にも、引き続いて使用された長い歴史があります。
  • 昭和22年(1947年)4月、検疫行政が厚生省へ移管されたため新しい旗章の制定が必要となり、昭和23年(1948年)4月8日厚生省訓令第7号「検疫所において使用する船舶に掲揚する旗章に関する件」が施行されました。様式は、白色地に黄色で「Quarantine」(検疫)の頭文字「Q」を全体に配したものでありました。しかし、当時の社会経済状況から定められた図柄の染色加工ができず、黄と白の布を縫合して調整されるありさまで、本船その他から識別が困難であるとの指摘があり、数年を経て廃止となりました。 
  • 昭和29年(1954年)6月16日、現行の旗章が厚生省訓令第3号「検疫所において使用する船舶に掲揚する旗章を定める件」によって定められました。この様式の考案に際しては、各検疫所から原案を公募する方法が採られ、応募作品の中から部分的に特性を抽出しこれをアレンジして決定しました。「Q」は前と同様の意で濃紺により表し、地の上半分の黄色は万国共通の検疫を、下半分は海と空を表現しています。

現行の検疫艇旗章

現行の検疫艇旗章

最後の検疫艇「はまおぎ」

最後の検疫艇「はまおぎ」

写真:大阪検疫所撮影

参考文献

検疫制度百年史(厚生省公衆衛生局)
検疫制度100周年記念誌(昭和54年7月(財)日本検疫衛生協会)
明治27年8月11日内務省告示「衛甲第40号」(国立公文書館)
新聞『日本』(明治28年4月2日)(日本新聞博物館)
神奈川県公報(神奈川県立公文書館所蔵)
関東大震災写真(国立科学博物館所蔵)
昭和21年特殊物件処理委員会関係綴計画課(神奈川県立公文書館所蔵)
帝国服制要覧(神奈川県立公文書館所蔵)
大正12年~昭和2年港務部営繕管理課(神奈川県立公文書館所蔵)
清水建設150年(清水建設株式会社)
神奈川縣寫眞帖(神奈川県立公文書館所蔵)
大正5年神奈川縣虎列刺流行誌(神奈川県立公文書館所蔵)
神奈川縣港務部要覧(神奈川県立公文書館所蔵)
大正大震火災誌(大正15年7月神奈川縣警察部)
横浜検疫所長浜措置場建築調査記録(1986年3月建設省関東地方建設局営繕部)