横浜検疫所の変遷

横浜港の開港

 安政元年(1854年)、江戸幕府は米国と「日米和親条約」(神奈川条約)を締結、下田と函館を開港し、鎖国体制は終焉を迎えました。
 また、安政5年(1858年)には、「日米修好通商条約」(不平等条約)を結び、既に開港している2港に加え、横浜、長崎、新潟、神戸をも開港します(下田は安政6年(1859年)に廃止)。なお、このとき江戸幕府は、米国以外にも列強国のオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を締結しています。

<日米和親条約調印の地>

日米和親条約調印の地

日米和親条約調印の地」の碑です(所在地は横浜市中区)。
日米の代表が横浜村の海岸で条約を結びました。
道路を挟んで向かいに横浜検疫所(本所)が入居する「横浜第二港湾合同庁舎」があります。

明治政府と感染症対策

 江戸時代における主な虎刺列(コレラ)の流行は、文政5年(1822年、通称「文政コレラ」)、安政5年(1858年、同「安政コレラ」)や、文久2年(1862年)に起こりました。
 特に安政コレラでは江戸だけで10万人が死亡し、文政コレラでも、全国で56万人の感染者が出て、江戸では7万3000人が死亡したといわれています。

<流行虎列刺病予防の心得>

流行虎列刺病予防の心得

錦絵には、「部屋はよく乾燥させて空気は入れ替え、体や衣類は清潔にし、みだりに井戸水などを飲んではいけない」など、細かい注意が書かれています。
なお、コレラは漢字で「虎列剌」あるいは「虎烈刺」「虎列拉」と書きます。
また、「ころりと死ぬ」ということから、コロリ(虎狼痢)とも記述されることもあります。

出典:内藤記念くすり博物館所蔵『流行虎列剌病予防の心得』

 その後、明治時代に入ってからも2年から3年間隔で感染が広がり、明治10年(1877年)には、清国厦門(現在の中国福建省厦門〔アモイ〕)で流行していたコレラの進入防止策として、内務省が神奈川、兵庫、長崎の三県に対して、避病院(伝染病の専門病院)の設置を命じます。入港する船舶を検査して船内にコレラ患者がいるときは避病院に移させることとし、また、清国往来の汽船会社には、乗客、貨物を点検しコレラ予防に注意するよう指示しました。

 しかし、英国公使の反対にあって三県における検疫は中止され、その結果、遂に同10年9月初め長崎及び横浜にコレラが侵入してしまいました。さらに、西南戦争後の帰還兵の中にコレラ患者がいたことで流行が拡大し、患者13,816人、死者は8,027人となる大流行となりました。

 『内務省衛生局第三次年報』(明治10年〔1877年〕7月1日から同11年〔1878年〕6月30日)に「西南の兵乱に際して虎列拉の流行に遭遇し全局の力を挙けて其防禦及ひ撲滅に従事す亦殆と他の事業を拡充整理するの暇なし」(※)とあることによっても、当時の事情をうかがうことができます。【(※):原文の「カナ」表示を「ひらがな」表示に変更した場合の表示としています。以下同じ。】

<明治期におけるコレラの患者数及び死亡者数の推移>

明治期におけるコレラの患者数及び死亡者数の推移

出典:厚生労働省『平成26年厚生労働白書』

明治11年のコレラ流行と「長浦消毒所」の設置

 『内務省衛生局第四次年報』(明治11年7月1日から同12年〔1879年〕6月30日)には、明治11年長崎から広がったコレラが全国に流行したことから、横浜と神戸の二港に消毒所を設置したとあります。

 神戸の消毒所は兵庫県和田岬西北地に、横浜の消毒所は神奈川県三浦郡長浦村(現在の神奈川県横須賀市長浦)に工事を着手し、神戸は同年10月29日、長浦は同年11月14日に一時的な仮設施設として開場しました。これらには、以降、営繕を加えることで完全な施設として保存し、検疫停舶の対応に備えようという政府の考えがあり、この長浦に設置された消毒所が「長浦消毒所」(現在の横浜検疫所の起源)となります。

 なお、長浦消毒所における設置当時の施設などについての内容は分かりませんが、東京湾口に十馬力の汽船を備えるなど、政府が指定したコレラ流行地からの船舶を長浦沖に停泊させて消毒等の検疫を実施していました。長浦消毒所の廃止後の情報等から、敷地は23,532坪で、主な施設としては停船場、病院、遺体安置所、消毒を行う施設、停留者の屋舎、火葬場等が設けられていたことが分かっています。

 長浦消毒所では、他の消毒所同様、業務の必要に応じて開閉所していました。

長浦消毒所の設置当時の様子

 長浦消毒所の設置について、明治11年11月16日付の横濱毎日新聞に「県下相州元長浦の消毒所も此節漸く落成せしに付き一昨日開場相成り本県より県官出張相成りしが着港の郵船中虎列刺病者なきを以て出張官吏は当日帰県いたされたり」とあり、長浦消毒所の落成と港に到着した郵便船にコレラの感染者はおらず、出張した職員は当日帰庁したとの記事を伝えています。

 また、清水建設株式会社『清水建設150年』には「明治11年(1878)神奈川県下に悪疫流行の兆があった為め、県庁は急に検疫所を長浦に建設しようとして清水店に請負わした。満之助が之に当り僅か7日間で運河を掘り、宿泊所を設け、役所を完成した。更に13年(1880)にも悪疫が流行した。県庁は再び清水店に追加工事を命じた。満之助は80時間で之れを完成した。」とあります。

明治12年のコレラ大流行と厳重な検疫の開始

 明治12年、再び清国厦門でコレラの大流行が起こりました。さらに、国内でも同年3月愛媛県で突如として発生したコレラが全国に蔓延したことが重なり、患者数16万2,637人、死者10万5,786人を出す、明治以降最大の流行となってしまいました。

 このため、明治政府は「虎列刺病予防假規則」(明治12年〔1879年〕6月27日太政官布告第23号)等を公布して予防に努めるとともに、船舶の検疫については同年7月1日、虎列刺病流行地方より入港する船舶については船中を調査し、汚染している場合は直ちに神奈川県横須賀長浦に設置してある消毒所へ回航して消毒を施行することとしました。

 さらに7月2日には、内務省が静岡県に通知(達丙第39号)で、「清水港より横浜、東京に郵便船で渡航の場合は到着の日より10日間止め置き、その後上陸を許可す。また、陸路の場合は三島駅にて到着の日より5日間差し留め、その後通行を許可せしむべし。」として、厳重な検疫を開始します。

 次いで7月8日、今度は神奈川県に対し、「虎列刺病流行地方より来航する船舶は、相州長浦において、10日間停泊せしめ、検疫委員検査の上、航海中に患者発生のない船舶は、有病の港を発航した日より起算して7日を経過した後、入港を許可すべし。」と命じ翌9日には、「虎列刺病流行地方より来航した船舶で、もし長浦を経ずして来航したものは、直ちに同所へ廻漕すべきことは勿論なれども、帆船は、風波の都合により、直ちに廻漕し難き場合には、乗組員の上陸及び荷揚げを禁止し、おって風波の都合を見計らって長浦へ廻漕せしむこと。ただし、風波の都合により、10日以上滞船して、患者発生ないものは、消毒法施行の上、上陸及び荷揚げを許可すべし。」と、より厳重さが増していきました。

我が国初の検疫規則「海港規則」の公布

 明治12年のコレラ大流行により厳重な検疫が開始される中、我が国の検疫制度上最初に公布された検疫規則である「海港虎列刺病伝染予防規則」(同年7月14日太政官布告第28号)(以下「海港規則」という。)が公布されました。

 また明治政府は、海港規則に基づき、神奈川県に地方検疫局を設置します(同年7月18日神奈川県甲第131号)。地方検疫委員会には、長官に神奈川県令、内務省4人、外務省1人、陸軍省1人(軍医)を任命。さらに、神奈川県御雇の十全医院院長シモンズ、横浜ドイツ帝国海軍病院院長グチョウ、横浜ゼネラル病院医師ホウィーラー、横浜司薬場教師ゲールツを臨時検疫委員としました。

 しかし、海港規則が公布されたものの、外国船舶については、ドイツ船「ヘスペリア号」のように船舶検疫を拒否する違反事件などもあり、我が国が制定した海港規則の施行を列強国に依頼するという形で行う状況が続きました。この状況は、明治32年(1899年)「海港検疫法」(明治32年2月13日法律第19号)が公布されるまで変わらず、海港規則の目的が達成されるまでには実に20年近くもの年月がかかりました。

<「海港虎列刺病伝染予防規則」(明治12年7月14日太政官布告第28号)>

海港虎列刺病伝染予防規則

出典:国立公文書館

長浦消毒所の移転による「長濱検疫所」の設置

 明治28年(1895年)、日清戦争に伴う横須賀軍港拡張のため長浦消毒所を撤去することとなり、神奈川県久良岐郡金沢村大字柴(現在の横浜市金沢区長浜)に移転することが決まります(明治27年8月11日衛甲第40号)。このときの工事も、長浦での設置時と同じく清水建設が請け負い、同年3月末に建設・移転が完了しました。

 そして明治29年(1896年)には、「消毒所の名称」(明治29年3月25日内務省告示第33号)により「長濱検疫所」と呼称されるようになりました(改称したその他の消毒所は、①和田岬検疫所(兵庫県)、②赤間関検疫所(山口県)、③女神検疫所(長崎県)、④函館検疫所(北海道)、⑤西船見町検疫所(新潟県))。

 長濱検疫所の初業務としては、明治28年4月10日に、金州(現在の中国遼寧省大連市)及び澎湖島地方(台湾)においてコレラが流行したことから、内務省が流行地域からの船舶に対して横浜港に航行する船舶で検査を受ける場合は「神奈川県長浜に寄停し検疫官の検査を受けるべき」(明治28年4月10日内務省告示第54号)とし、また、同年7月30日「台湾及び朝鮮国諸港」(内務省告示第97号)も検疫の対象になったため、明治28年12月17日まで続きました(明治28年12月16日内務省告示第151号)。

 また、日清戦争に伴う戦地からの帰国者等に対する検疫について陸軍大臣からの要請を受け、陸軍検疫所設置までの間、内務省所管の長濱検疫所を含む検疫所で行うこととなりました。同年、長濱検疫所では外国船や陸海軍関係船舶も含め72隻の検疫を行い、28隻を消毒し6隻を停留としました。なお、この年は、日清戦争に伴う戦地からの帰国等のためコレラが流行し55,144人が感染し、40,154人が死亡しました。

<明治28(1895)年完成時の長濱検疫所>

明治28(1895)年完成時の長濱検疫所

出典:学校法人北里研究所所蔵細菌学雑誌(明治29年11月号巻末)

<明治28(1895)年完成当時の第一消毒缶罐と第二消毒罐>

明治28(1895)年完成当時の第一消毒缶罐と第二消毒罐

学校法人北里研究所所蔵細菌学雑誌(明治29年11月号巻末)

完全な設備を持った長濱検疫所

 長濱検疫所は、敷地約14,370坪、建物約1,244坪、棟数38、海中に120間の防波堤、その内には65間の木造桟橋を架け船客や貨物の陸揚の便に供しました。建物内には14の停留室を設けて、上等船客用には寝台を備え、一般船客用は100人を収容できたうえ、食堂、談話室もあり、さらに、それぞれ男女の浴場、化粧室もありました。その他にも、消毒施設、伝染病院、火葬場まで設け、工事費118,241円をかけた当時としては完全な検疫所でした。
 『横浜海港50年史』によれば「由来検疫の事たる衛生上須要なるものなれども、旅客に取ては迷惑な事なれば停泊中は成るべく便宜と快楽とを與へざるべからず、長濱検疫所は特に此辺に意を用ひたるものにして、天然好風景の地を撰みて設立したる上、所内にも庭園を設け、旅客の歓楽に供し普通の海水浴場に於けるが如き設備を為したるものなり」とあります。

「海港検疫法」の施行で常設の検疫機関に

 明治32年(1899年)5月「海港検疫法」(明治32年2月14日法律第19号)及び「海港検疫所官制」(明治32年4月13日勅令第137号)の施行により、長濱検疫所は、内務省直轄の「横濱海港検疫所」として常設の機関となりました。

 それまでは、コレラ流行の都度告示を待って検疫が実施されていましたが、常設の機関となったことで、ようやく外国の干渉を受けることなく我が国独自で常時海港検疫を施行できる体制が整います(その他の海港検疫所は①神戸海港検疫所(兵庫県)、②長崎海港検疫所(長崎県))。また、海港検疫法施行前の検疫は、汽船を借り入れて長浜と夏島との中央沖合で行っていましたが、同法施行後は横浜港付近で行えるようになったため、本牧沖に碇置した検疫番船内で検疫を行い、消毒を要するときに限り長浜に回航させるようになりました。番船は、随時、汽船を借り入れて業務に当たっていました。

 さらに、明治35年(1902年)には「港務部官制」(明治35年3月28日勅令第73号)が施行され、検疫業務も神奈川県港務部の所掌するところとなります。平常業務は、桟橋際の港務部庁舎を本拠として行われ、長浜の施設は汚染船舶の措置場となりました。

 検疫番船には商船学校に保管していた旧軍艦孟春号(排水量357トン、長さ44.5m、幅6.6m)の保管転換を受け、これに充てていましたが、明治41年(1908年)に横浜港内の一部を埋め立てて港務部見張所を建設し、番船に替えました。なお、この見張所は、大正12年(1923年)9月1日関東大震災で崩壊し、以降、港務部本庁舎庭内に望楼を設けて入港船を監視し、ここから検疫艇を派遣することとなりました。

<「海港検疫法」(明治32年2月13日法律第19号)>

海港検疫法

出典:国立公文書館

<海港検疫医官補時代の野口英世>

検疫医官補時代の野口英世

出典:(公財)野口英世記念会所蔵

<野口英世が細菌検査に従事した細菌検査室>

野口英世が細菌検査に従事した細菌検査室

海港検疫医官補として採用された野口英世

 海港検疫所には所長1人、海港検疫官1人、海港検疫官補1人、海港検疫医官補3人、海港検疫所調剤手1人、海港検疫所書記2人の職員を配置していました。その海港検疫医官補として明治32年5月に採用されたのが野口英世です。

 野口英世は、折から入港した亜米利加丸(アメリカ丸)の検疫に従事して、船艙で苦しんでいた中国人船員からペスト菌を検出しました。野口の名を一躍伝染病関係の医師や海港検疫医の間に知らしめたのも長濱検疫所の細菌検査室です。

関東大震災の後、税関、海務局、海運局へと業務移管

 大正12年(1923年)に起こった関東大震災によって、長浜の施設も建物が倒壊するなどの打撃を被りました。復旧に当たっては、国道に通じる馬車道を開くため民有地7,122坪を買収し、また将来停留所等の拡張のために約3,000坪を埋立造成するなどしたため、敷地面積は旧来の敷地を併せ23,720坪となりました。なお、この大震災に伴う復旧工事も翌13年(1924年)には終了し、全ての施設で原形のように復元します。復旧改築費は23,913円13銭を要し、同時に消毒缶一基はSK式真空消毒装置に改められました。

 また、関東大震災が起きた3日後の9月4日にはカムチャッカ港から入国した対馬丸(6,754トン、貨物船)の検疫業務を行っており、12月末までの実績は検疫船舶数484隻、被検疫人員は乗組員41,651人、乗客32,402人で、ペストなどの伝染病患者は発見されていません。ちなみに、3年後の昭和元年(1912年)の実績は、検疫船舶数は2,845隻、被検疫人員は乗組員215,528人、乗客97,899人、発見した伝染病患者数11人でした。このときは、コレラ、痘瘡、猩紅熱患者が発見されたため長浜に回航し、消毒を施行した船舶数9、被消毒人員480人、患者収容数7人、収容日数57日、停留人員318人、停留日数9日でした。

 大正13年(1924年)、「税関官制」(大正13年12月20日勅令第333号)の改正により、港務部の事務は全て税関に移管され、検疫業務も横浜税関港務部が行いました。

 さらに、第二次世界大戦(昭和14年~)、太平洋戦争(昭和16年~)に伴う戦時体制確立の名目の下、昭和16年(1941年)には「海務局官制」(昭和16年12月18日勅令第1048号)が、昭和18年(1943年)には「海運局官制」(昭和18年11月1日勅令第832号)が公布され、本検疫所もそれぞれ横浜海務局、横浜海運局(後の関東海運局)に所属することになりました。

<関東大震災 横浜 桟橋入口付近>

関東大震災 横浜 桟橋入口付近

出典:国立科学博物館所蔵

戦後、引揚者等のための「浦賀検疫所」、「長濱援護所」に

 昭和20年(1945年)9月、連合国軍最高司令官総司令部(以下「GHQ」という。)の指令により、日本政府は米国軍と協力して引揚者に対する検疫を行うことになり、関東地方では浦賀及び横浜(神奈川県)に受入施設を設けることが指示されます。これらの事業に当たっては、旧軍部の残存施設や衛生材料等に頼らざるを得なかったため、旧海軍施設のあった浦賀を引揚港として整備し、引揚者の検疫が行われることになりました。

<氷川丸>

氷川丸

昭和20年10月、浦賀に入港した「氷川丸」です。
デッキには多くの復員兵が乗船していました。

出典:中島三郎助と遊ぶ会

 同年11月27日設置された厚生省浦賀引揚援護局に属する「浦賀検疫所」がこれであり、12月になって横浜の引揚検疫所設置予定は取り消されました。翌21年(1946年)3月、浦賀検疫所は久里浜の援護部門と分かれ旧海軍対潜学校へ移転、未消毒及び既消毒荷物置場、健康診断所、浴場、DDT撒布消毒所、検疫病院(元学生舎及び講堂施設利用)、細菌検査所(元第7兵舎利用)及び消毒所等を整備、当時の困難な環境下で特にコレラ汚染船舶の検疫港としての使命を全うし、昭和22年(1947年)5月1日をもって閉所しました。

 また引揚検疫に並行して、一般船舶の検疫においても、復興に向けた経済界の再開が進み、必要現在量を確保するため貿易の正当化が要求され、昭和21年(1946年)GHQ回章第10号「日本に対する外国検疫規則」が発せられ、引揚関係以外の人、船舶、航空機及び物に対しても連合国軍の下に検疫を行うこととなりました。その後、引揚検疫の縮小とともに一般通商貿易の再開に備えて昭和22年「横浜検疫所」など7つの検疫所(函館、名古屋、神戸、宇品、門司及び長崎)を開設し、同年6月から一般業務を開始しました。

 なお、浦賀検疫所で取り扱った汚染船舶は23隻、患者483人(うち死亡72人)、保菌者191人であり、その大部分が広東(現在の中国広東省)、海防(現在のベトナム北東部)方面からの引揚げでした。職員の中には、昭和22年4月「検疫所官制」(昭和22年4月6日勅令第147号)の公布によって厚生省に所属することとなった横浜検疫所に引き続き勤務した者もいました。

<昭和30年頃の横浜援護所の宿泊施設など>

昭和30年頃の横浜援護所の宿泊施設など

引揚検疫を引き継いだ「横浜援護所」

 閉鎖された浦賀引揚援護局に代わるものとして、小規模の「内地へ引揚げる者の並びに内地以外の地へ引揚げる者の収容、送出及びこれにともなう援護に関する施設」を横浜港に設けることとなり、GHQが場所等を選定しました。
 当時第8軍第24騎兵師団が接収中の運輸省関東海運局税関部長濱検疫所と海軍傷痍軍人療養所の施設を解除し、「横浜援護所」として昭和22年5月1日に発足、昭和30年(1955年)7月11日まで海外引揚者の受入れなどの業務に当たり、8年間で約5,000人の引揚げや在日ドイツ人などの送還などに関する業務を行いました。

「横浜検疫所」として単独庁舎が完成

 検疫行政機構は、当初地方検疫局として発足して、府県港務部、税関(大蔵省)、海務局(逓信省)、海運局(運輸通信省→運輸省)と所管を変遷してきましたが、GHQの指示及び関係閣僚の協定の下、昭和22年(1947年)「検疫所官制」(昭和22年4月6日勅令第147号)が公布され、検疫業務は衛生行政の一元化並びに体制の明確化等の点から厚生省(現在の厚生労働省)が所管することになり、現在に至っています。

 開設当時の横浜検疫所は、他の適当な庁舎もないままに、接収解除を受けた長浜の施設を本所として所長及び庶務課の中心を置きました。臨船検疫や、その他、日常の現場業務処理のためには従来どおり旧海運局港湾庁舎を共同使用することとし、その一隅を桟橋分室として、ここに検疫課、衛生課の主力が勤務して業務の遂行に当たっていました。

 しかしながら、長浜の施設は交通不便な隔離地域にあり、本所を長浜に置くこと自体不便であるばかりでなく、占領下の検疫業務は米第8軍司令官の管理に属し、その指揮監督の下に行われたため、現場業務を処理する桟橋分室とが分かれていることは業務上不都合でした。加えて、検疫業務の処理が逐次日本側に移譲されるに従って業務はますます繁忙となり、桟橋分室も手狭になりましたが、その桟橋分室も海上保安部の整理、拡充のため明け渡さざるを得なくなりました。

 こうして、昭和27年(1952年)8月、鉄筋コンクリート2階建て505㎡の横浜検疫所の単独庁舎が桟橋際に完成し、事務部門と現業部門の統一が図られました。

<横浜検疫所本所庁舎(昭和28年)>

横浜検疫所本所庁舎(昭和28年)

<横浜第二港湾合同庁舎>

横浜第二港湾合同庁舎

横浜検疫所本所が入居している

横浜検疫所の完成後、長濱の施設は措置場に

 横浜検疫所の完成後、長浜の施設は検疫措置を行う専門の措置場(以下「長濱措置場」という。)として存続され、エルトールコレラの汎流行時、昭和37年(1962年)には東京検疫所より回航したコレラ汚染船舶「京都丸」及び昭和38年(1963年)横浜検疫所で発見されたコレラ汚染「PRESIDENT QUIRINO号」、「GUNUN KERINJI号」及び「FENG号」の検疫措置が行われました。その後、港湾関係官署が分散したことや庁舎が手狭になったことにより、昭和48年(1973年)現在の横浜第二港湾合同庁舎が建設されるに至っています。

 長濱措置場は、敷地112,120㎡、主要施設として隔離病舎、一号停留所、二号停留所、未消毒及び既消毒施設等がありましたが、これらの施設のほとんどが大正13年(1924年)の関東大震災後に復旧したものであり、その後、維持補修に努めてきたものの耐用限度に至り、気缶装置及び蒸気消毒装置も使用に耐えない状況になっていました。このため、昭和61年(1986年)3月、一号停留所など一部の施設を残して、新たに検査室、停留室(8室)、病室(4室)及びSK消毒室等も兼ねた総合的な2階建ての長濱措置場を設けました。

 また、昭和43年度(1968年度)からは横浜市の金沢地先埋立事業が始まり、そのため長濱措置場の地先海面は1.5㎞ほどが埋め立てられます。この埋立てによって、与謝野晶子が「芝山と海のやかたを埋めたり二月の末の水いろの風」と歌い、与謝野寛が「春の日に来て立つ沙丘ななめにもさはるものなく海に及べり」と詠じ、「春の浜に柵結ひありぬ検疫所」と髙浜虚子が吟じた海辺の風光は既にありません。

 そして昭和57年(1982年)、検疫所の業務に輸入食品の監視業務が加わり、昭和61年(1986年)に設けた長濱措置場を改修するとともに、平成7年(1995年)には新棟を設けるなどして、現在の輸入食品・検疫検査センターの構造が完成しました。

髙浜虚子の句

髙浜虚子の句です。
「春の浜に 柵結ひありぬ検疫所 虚子」

<横浜検疫所輸入食品・検疫検査センター>

横浜検疫所輸入食品・検疫検査センター

<横浜検疫所施設公開の様子>

横浜検疫所施設公開の様子

平成29年度横浜検疫所施設公開での「ものづくり体験」の写真です。
毎年一回、テーマを変えて開催しています。

保存された「一号停留所」

 長濱措置場における多くの施設は惜しまれつつ取り壊されましたが、残された一号停留所は、昭和61年(1986年)より検疫資料館として活用し、今なお明治の面影を色濃く遺したまま現存しています。館内には当時の検疫において使用した器具や与謝野鉄幹(寛)・晶子夫妻などの著名人が訪問した際に残した直筆の書などの貴重な歴史的資料が少なからず保管、展示されています。また、横浜検疫所では、年に一度、輸入食品・検疫検査センターと検疫資料館の施設公開を行っておりホームページ等で告知しています。さらに、平成5年(1993年)地元の強い要望から野口英世ゆかりの細菌検査室を横浜市に払下げを行いました。

現在の横浜検疫所

 現在、横浜検疫所では、国民の健康に重大な影響を及ぼす検疫感染症の国内への侵入と蔓延を防止するため、海外から来航する船舶等に対する検疫業務の実施、外国船舶に対する衛生管理(免除)証明書の発給や港湾地域における感染症を媒介する蚊、ネズミ等の生息状況及び病原体の保有調査を行っています。
 また、輸入食品等の安全性を確保するため、輸入食品等が食品衛生法に基づき適法であるか、食品衛生監視員が輸入届出書の審査及び必要に応じた検査(命令検査、行政検査、モニタリング検査)等も実施しています。

<ねずみ族捕獲調査>

ねずみ族捕獲調査

ねずみ族捕獲調査の写真です。
ねずみを捕獲するための捕そ器(ラットトラップ)を調査区ごとにねずみの生息が疑われる場所にセットします。

<モニタリング検査>

モニタリング検査

そばのモニタリング検査を行っている写真です。
穀刺しという道具で採取し、採取したそばについてカビ毒であるアフラトキシン、残留農薬について検査を行います。

 さらに、輸入者等に対し、食品等の輸入手続や検査制度、自主的な衛生管理の取組に必要な我が国の食品衛生規制に関して情報提供、指導等を行っているほか、輸入食品・検疫検査センターでは全国の検疫所からサンプリングされた輸入食品等の試験品について、残留農薬、動物用医薬品、有害有毒物質、安全性未承認の遺伝子組換え食品、病原微生物の検出など、高度な分析機器による理化学検査及び微生物学検査を実施しています。

 また、感染症については、検疫実施時に感染症に感染した疑いのあるヒトから採取した検体、船舶などを介して国内に侵入した媒介動物及び港湾区域で捕獲した蚊、ネズミ等の病原体検査等を実施しているほか、横浜港保健衛生管理運営協議会を組織して、例年横浜港に入港する船舶における「新型インフルエンザ等検疫感染症疑い患者」に対する感染症対策総合訓練を行っています。

<検疫検査の様子>

検疫検査の様子

横浜検疫所輸入食品・検疫検査センターにおける検査時の写真です。
検査する食品を粉砕し、有機溶媒等を加えて抽出・濃縮しています。

<感染症対策総合訓練の様子>

感染症対策総合訓練の様子

平成29年度感染症対策総合訓練の写真です。
船内から検疫官が有症者を搬出して、感染症指定医療機関へ輸送する訓練です。

 食品衛生法に基づく検査は、正確でかつ信頼性が保証される必要があることから信頼性確保部門(審査指導課)を設け、検査結果や検査業務の手順・操作・分析機器や試薬の管理・記録等の確認を行う内部点検、既知試料又は陽性対照を試験品と並行して検査し、その結果について評価する精度管理、国内及び国外の第三者機関が実施する技能試験に参加し、参加検査機関の結果から検査能力の評価をする外部精度管理調査を実施し、検査の信頼性確保に努めています。

<部門関係図>

部門関係図

信頼性確保部門、検査部門及び試験品採取部門との関係図

 また、食品衛生法第27条に基づく食品等の輸入手続は、平成8年(1998年)から電子情報処理組織「輸入食品監視支援システム(FAINS)」として電子化し、自動審査も取り入れて構築したネットワークシステムで行われるようになり、その利用率は平成26年度(2014年度)から96%を超えています。FAINSは、平成25年(2013年)10月から入出港する船舶等及び輸出入される貨物の税関手続や貿易管理手続を始め、関連する民間業務等をオンラインで処理するシステム「NACCS(Nippon Automated Cargo and Port Consolidated System)」へ統合を果たし、以来、NACCSの一部となったFAINSを利用して食品等の輸入手続に係る業務を電子的に処理しています。また、横浜検疫所は、食品等の輸入に関わる全国の検疫所、輸入者、登録検査機関がシステムを利用して各種業務を行う際に必要な情報の運用管理や食品等輸入届出状況等の統計解析業務を行う中心となり、輸入食品監視指導業務に活用されています。

< NACCSと統合した輸入食品監視支援システムの関係図 >

NACCSと統合した輸入食品監視支援システムの関係図

 横浜検疫所では、平成26年(2014年)2月17日、ISO/IEC17025認定機関から食品中の残留動物用医薬品の試験検査に関して、試験所の国際規格であるISO/IEC17025の認定を取得しました。また、平成27年(2015年)2月24日に残留農薬、有害有毒物質及び微生物試験検査、平成28年(2016年)2月23日に試験品採取、平成29年(2017年)3月9日にGMO試験検査について拡大認定審査を受審し認定されました。認定後についても毎年認定機関による更新審査を受審しています。

< ISO/IEC17025認定機関からの認定書 >

ISO/IEC17025認定機関からの認定書

参考文献

検疫制度百年史(昭和55年3月厚生省公衆衛生局)
検疫制度100周年記念誌(昭和54年7月(財)日本検疫衛生協会)
内務省衛生局年報(国立国会図書館所蔵)
神奈川縣港務部要覧(明治43年11月神奈川縣港務部 神奈川県立公文書館所蔵)
流行虎列剌病予防の心得(内藤記念くすり博物館所蔵)
平成26年厚生労働白書(厚生労働省)
横濱毎日新聞明治11年11月16日
清水建設150年(1953年11月清水建設株式会社所蔵)
海港虎列刺病伝染予防規則・海港検疫法(国立公文書館所蔵)
細菌学雑誌(明治29年11月号巻末)(学校法人北里研究所所蔵)
横浜海港50年史(明治42年5月横濱商業會議所)
野口英世海港検疫医官補((公財)野口英世記念会所蔵)
大正12年~昭和2年営繕管理課(神奈川県立公文書館所蔵)
関東大震災写真(国立科学博物館所蔵)
氷川丸の写真(中島三郎助と遊ぶ会所蔵)
援護所史(厚生省・援護所 昭和30年3月)
横浜検疫所長浜措置場建築調査記録(1986年3月建設省関東地方建設局営繕課)