長浦消毒所の設置について

長浦消毒所の概要

 明治11年(1878年)、内務省は長崎から広がった虎列刺(コレラ)対策のため、神奈川県三浦郡長浦村(現在の横須賀市箱崎)に「長浦消毒所」を設置しました(同年11月14日)。これが、現在の横浜検疫所の起源です。
 長浦消毒所の総坪数は23,532坪(77,793㎡)で、敷地内には、停船場、病院、遺体安置所、消毒を行う施設、停留者の屋舎、火葬場等を配置。東京湾口に十馬力の汽船を備えていたほか、明治政府が指定したコレラ流行地からの船舶を長浦沖に停泊させて検疫を実施していました。

 明治12年(1879年)7月には、神奈川県地方検疫局が設置され、同局長官に神奈川県令、内務省、外務省、陸軍省の職員のほか、神奈川県御雇の十全医院院長シモンズ、横浜ドイツ帝国海軍病院院長グチョウ、横浜ゼネラル病院医師ホウィーラー、横浜司薬場教師ゲールツを臨時検疫委員として配置しました。
 また、明治18年(1885年)9月には、長浦消毒所の附属避病院(*1)であった郷戸避病院(設置年等、詳細は不明)を、郷戸地区(現在の神奈川県横須賀市船越7丁目(狢湾))から消毒所に近い三浦郡長浦村へ移転。さらに明治19年(1886年)に、消毒所で使用していた汽罐(*2)を、当時欧州において最善とされていた「乾湿熱消毒汽罐」の構造のものにするなど、施設や設備の充実を図っていきました。

 そして設置から約17年が経った明治28年(1895年)3月、日清戦争による横須賀軍港拡張のため、神奈川県久良岐郡金沢村大字柴(現在の横浜市金沢区長浜)へ移転することとなり、長浦消毒所はその役割を終えました。

(*1)避病院:伝染病の専門病院
(*2)汽罐:液体を加熱して蒸気を発生させる装置(ボイラー)

長浦消毒所の約17年間

消毒所設置の背景

 内務省衛生局「第四次年報」(明治11年7月1日~同12年6月30日)によれば、明治11年に長崎から広がった虎列刺(コレラ)が全国に流行したことから、横浜と神戸の二港に消毒所を設置したとあります。
 神戸は兵庫県和田岬西北地で、横浜は神奈川県三浦郡長浦村(現在の神奈川県横須賀市箱崎)で工事を着手し、神戸は同年10月29日に、横浜は同年11月14日に一時の仮設として開場しました。 「仮設」としたことの背景には、今後、営繕を加えることで完全な施設として保存し、検疫停舶の対応に備えようとする政府の考えがありました。この長浦村に設置された消毒所が「長浦消毒所」であり、現在の横浜検疫所の起源となります。
 その後、日清戦争による横須賀軍港拡張のため、明治28年3月に神奈川県久良岐郡金沢村大字柴(現在の横浜市金沢区長浜)へ移転します。

 長浦消毒所が設置されたことについては、明治11年11月16日付けの横濱毎日新聞に「県下相州元長浦の消毒所も此節漸く落成せしに付き一昨日開場相成り本県より県官出張相成りしが着港の郵船中虎列刺病者なきを以て出張官吏は当日帰県いたされたり」(※)と長浦消毒所の落成と港に到着した郵便船にコレラの感染者はおらず、出張した職員は当日帰庁したとの記事を伝えています。【(※):原文の「カナ」表示を「ひらがな」表示に変更した場合の表示としています。以下同じ。】

「海港虎列刺病伝染予防規則」の公布

 明治12年(1879年) 7月14日、明治政府はコレラの蔓延を防止するため「海港虎列刺病伝染予防規則」(太政官布告第28号)(以下「海港規則」という。以下同じ。)を公布し、神奈川県に地方検疫局を設置します(同年7月18日神奈川県甲第131号)。
 地方検疫局委員には、長官に神奈川県令、内務省4人、外務省1人、陸軍省1人(軍医)。神奈川県御雇の横浜在留の英国医師ホウイチ、司薬場教師ゲルツ、山手居留地独逸海軍病院医官グッチョを臨時検疫委員とし、東京湾口に十馬力の汽船を備えたほか、政府が指定したコレラ流行地からの船舶を長浦沖に停泊させて消毒等の検疫を実施していました。
 なお、明治政府は海港規則の公布のほかにも蔓延防止のための様々な対策を練っており、規則の前に内務省から出された通知(達)の中にも、長浦消毒所に関する記述が残っています。

海港規則公布前後の混乱

 海港規則が公布される前の明治12年7月2日、内務省は、「虎列刺病流行地方経過の船舶相州長浦に於て10日間差止」(内務省達丙第39号)と題し、「コラレ流行地域から横浜港へ入港する船舶は相州長浦において10日間停泊する」としました。これを受け、神奈川県は同年7月9日丙第244号をもって、検疫委員が検査を行い患者がいない船舶については、有病の港を出港した日から計算して7日経過する場合は入港を許すこととしました。

 このことについて、同年7月6日の横濱毎日新聞に「流行地域から来た船舶がこの規則を知らず途中で乗客を下ろしたことが規則に抵触することから降りた乗客を連れ戻し、長浦に連れてきて規則の如く消毒を行った」とあります。また、同月25日の同紙でも「過日、神戸港より搭乗した米領事が長浦消毒所に空しく帰神したことを以て今度日本政府に対しその償金を得ると聞くが賛否は分からない」と伝えるなど、当時の混乱ぶりなどが伺えます。

 また、同年9月4日、東京日日新聞は「九月三日各地コレラ病患者日報表」を載せ、コレラの蔓延状況を伝えています。この日報表の「海軍」欄には「長浦地方避病院へ托す 自29日正午至1日正午」とあり(下の資料、青線囲みの箇所参照)、同紙9月1日の記事にも「富士山艦がコレラ避病のため一昨日から長浦で消毒法を行う」とありますので、コレラに罹患したのは同艦乗員と推測できます。

日報表

明治12年9月4日 東京日日新聞

公告

明治12年7月2日東京日日新聞の「公告」です。
コレラ流行地からの郵便物の遅延等について、驛逓局(現在の郵便局)がお知らせを行っています。

海軍艦船の消毒

 海軍の艦船の消毒を長浦消毒所で行うことについては、『海軍衛生制度史』第二巻によると「帝国海軍に消毒所を設置したるは明治37年(1904年)」であり、「当時海軍の諸艦船は概して横須賀を中心として活動せしを以て若し艦船に虎列刺病患者発生し諸艦船の大消毒施行を必要とする場合特に海軍に於て消毒所を設置し置くよりも長浦消毒所に依頼して消毒を行ふ方得策にして且又事実上予算上消毒所設置困難」、つまり経費等の都合で長浦消毒所で行うとあり、明治12年(1879年)7月24日海軍省医務局長が上申の後、同年8月2日以降指令により「艦船の大消毒は総て長浦消毒所へ依頼してこれを施行する」ことになりました。

 ちなみに、艦船の消毒は長浦消毒所に限った業務ではなく、「明治22年(1889年)呉及び佐世保両鎮守府設置せられたる以後においては伝染病患者発生したる艦船の大消毒を必要とする場合は横須賀鎮守府管下に於ては長浦消毒所、佐世保鎮守府管下に於ては長崎地方検疫局又呉鎮守府管下にありては最寄地方検疫局に依頼するを普通とせり」と他の消毒所においても長浦消毒所同様に行われていたようです。

 その後、明治37年(1904年)日露戦争の必要から海軍においても消毒所を海軍病院の管理下に設置しますが、「急を要する場合或は小艦船にして消毒所開設に却て多額の費用を要する場合は長崎検疫所或は長浦消毒所の後身たる長濱検疫所に依頼して消毒を施行せり」とあるように艦船の規模等で消毒先を選択していたようです。
 内務省は海軍省からの依頼に応じ艦船の消毒を行った際の費用を、次のとおり規定していました(明治34年(1901年)7月29日内務省調第644号)。

・軍艦消毒費
①排水量100トン未満10円
②排水量100トン以上2,000トン未満20円
③排水量1,000トン以上2,000トン未満30円 注:二千トン以上は1,000トン未満を増す毎に10円を加ふ
・乗組員の衣類手荷物所持品の消毒
①准士官以上一人に付1円
②下士官10銭

敷地面積と建物

 長浦消毒所の敷地面積について、設置当初の状況に関しては資料がないため分かりませんが、長浦消毒所廃止後の用地を海軍用地に編入した際の資料等から、次のことが分かります。

(1)敷地

①長浦消毒所実測坪数21,786坪1合3勺3方(約72,020㎡)
②長浦消毒所附属井戸敷地実測坪数420坪9合0勺9方(約1,391㎡)
③長浦消毒所川敷実測坪数1,325坪3合7勺5方(約4,381㎡)
④合計23,532坪4合1勺7方(約77,793㎡)
※㎡は端数を省略
日報表

敷地の番号は上述の場所を「長浦旧消毒所之圖面」にて示しています。

出典:「長浦消毒所移転該敷地海軍用地へ編入の件」
国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵

(2)主な建物・営造物等
  ①停船場、②病院、③遺体安置所、④消毒を行う施設、⑤停留者の屋舎及び生活必需品、⑥火葬場、
  ⑦汽船(十馬力)、⑧土堤海岸通(29坪5合)、⑨溝渠石垣(49間)、⑩水溜(2か所)、⑪井戸(1か所)、
  ⑫樋管(16間2合7勺)、⑬樋桝(1か所)、⑭桝(5合)、⑮掘井戸(3か所)、⑯橋(1か所)、⑰周囲木棚(677間)、
  ⑱仝門(5か所)、⑲木棚(病院の分41間半)、⑳下水緑石(46間)、㉑中断土抱(1か所)、水溜(7か所)

 総敷地は23,532坪余であり、横須賀軍港拡張のため明治28年3月に移転した先の「長濱検疫所」の完成当時の敷地が14,370坪余ですので、長浦消毒所はその1.6倍の広さがあったようです。

附属避病院など

 長浦消毒所に附属した避病院や、消毒所の設備について、以下のような記録が残っています。

  • 明治13年(1880年)10月3日、台風からの暴風雨によって長浦消毒所と郷戸避病院に修繕が必要となったため神奈川県令が内務卿に修繕費(523円9銭8厘(長浦消毒所466円71銭、郷戸避消毒所56円38銭8厘))について上申を行い、さらに内務卿から太政大臣に同所の修繕費について上申を行っています(注:「郷戸避病院」の設置年等詳細は不明) 。
  • 明治17年(1884年)7月3日付けで内務卿から太政大臣への上申書「長浦消毒所付属病院移轉及不用建物拂下けの件」で、避病院敷地を海軍の予備艦船の停泊場にするため用地の管理換えについて海軍省からの照会がきており、「避病院建物等を長浦消毒所の裏手の字水ヶ尻へ移転するため、移転費として1,789円88銭6厘を海軍省から支払い、もし、残金があった場合には内務省の雑収入に、また、不足の場合は避病院保存費から支出し、不用の建物は横須賀市民へ払下げをお願いしたい」とあります。
  • 明治15年5月当時の「神奈川縣相模國三浦郡横須賀町外五村」の地図によると、長浦湾を挟んで神奈川県三浦郡長浦村(現在の横須賀市箱崎)に消毒所が、郷戸(現在の横須賀市船越7丁目(狢湾) )に避病院が描かれています。
  • 内務省「記録材料・行程報告」によれば「明治18年(1885年)9月長浦消毒所に附属避病院を新築した」とあります。
  • 以上のことから、当初は別々の場所にあった消毒所と避病院が、明治18年9月に消毒所と同じ三浦郡長浦村に新築されたと考えられます。
  • また『内務省衛生局年報』(明治17年7月~明治20年12月)には、明治18年(1885年)太政官の裁可を経て19年度(1886年度)に修理した消毒所は長浦を含め3か所で合計42,660円余とあります。さらに、長浦消毒所における改修について内務省「記録材料・行程報告」には「長浦消毒所汽罐は19年中改良を加え近時欧州において最善と称する乾湿熱消毒汽罐の構造のもの」で、2,150円支出したとあり、(翌年)4月に落成したとあります。これらの記録から、長浦消毒所に欧州と同様な消毒機器である汽罐を設置したことは意義があったと推察できます。

図版でみる長浦消毒所の移り変わり

長浦消毒所の移り変わり①

相模国横須賀の図

 長浦消毒所が設置される5年前に製作された「相模国横須賀の図」です。
 ○印の場所が「箱崎半島」で、東京湾に突き出ています。
 地図中、矢印で示している箇所が、長浦消毒所を設置することになる場所です。
 横須賀湾を隔てた向かい側の半島には、海軍がありました。

出典:「相模国横須賀の図」(明治6年) 国立公文書館所蔵

長浦消毒所の移り変わり②

神奈川県相模国三浦郡横須賀町外5村の地図

明治15年5月当時の、神奈川県相模国三浦郡横須賀町外5村の地図です。①が「長浦消毒所」、②は「郷戸避病院」があった場所です。
この地図は、(一財)日本地図 センターが作成した明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図「神奈川県相模国三浦郡横須賀町外5村」を使用しました。

箱崎半島の地図

箱崎半島の地図です。①本長浦地区に消毒所施設がありました。②水ヶ尻地区には明治18年9月に附属避病院が設けられました。

出典:「昭和5年神奈川県三浦郡田浦町地番反別入地地図」
神奈川県立公文書館所蔵

長浦消毒所の移り変わり③

 明治29年(1896年)に海軍が長浦消毒所旧用地を実測した際の資料です。
 地図は①長浦旧消毒所近傍之図、②長浦旧消毒所附属井戸敷地実測之図、③長浦旧消毒所実測図から構成しています。③長浦旧消毒所実測図には建物と思われる図もありますが名称等は書かれていません。

<①長浦旧消毒所近傍之図 消毒所全体の図>

長浦旧消毒所近傍之図消毒所全体の図

<②長浦旧消毒所附属井戸敷地実測之図 井戸の平面図>

長浦旧消毒所附属井戸敷地実測之図

出典:「長浦消毒所移転該敷地海軍用地へ編入の件」
国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵

<③長浦旧消毒所実測図 井戸以外の施設があった場所の平面図>

長浦旧消毒所実測図井戸以外の施設があった場所の平面図

平面図からは20を超える建物等があったことがうかがえますが、それが「何か」まで分かりません。ただ、平面図の右下部分に少し離れて位置する建物群については、別の資料に明治18年(1885年)9月長浦消毒所に附属避病院を新築したとあり、場所が「字水ヶ尻」であることから、この建物が「附属避病院の関連施設」ではないかと思われます。

出典:「長浦消毒所移転該敷地海軍用地へ編入の件」 国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵

長浦消毒所の移り変わり④

横須賀明細弌覧絵圖

明治18年の『横須賀明細弌覧絵圖』です。
〇で囲ったところに長浦消毒所がありました。

出典:「横須賀港弌覧絵図」(明治18年)神奈川県立図書館所蔵

長浦消毒所の移り変わり⑤

横須賀港略圖

『横須賀港独案内』(明治21年発行)の「横須賀港略圖」中に描かれている消毒所(長浦消毒所)を○で囲んでいます。
 横須賀湾と長浦湾に挟まれ東京湾に突き出た「箱崎半島(現在、吾妻島)」にあり、箱崎半島上から東京湾に入ってくる船舶を監視していました。

長浦消毒所の移り変わり⑥

長浦消毒所の跡地

現在、長浦消毒所の跡地は、米軍箱崎基地になっています。
当時の「堀割」は、埋め立てられて道路になっています(写真中央)。

出典:神奈川県庁ホームページ

参考 明治14年(1881年)に建築された兵庫県地方検疫局消毒所「和田岬消毒所(現在の神戸検疫所)」

 和田岬消毒所は、長浦消毒所と同じ明治11年(1878年)に設置されました。
 その後、明治14年(1881年)に施設等の建築をしています。
 当時の消毒所の施設等をご覧ください。

兵庫消毒所之図

『兵庫消毒所之図』です。
敷地内の主な建物を見ると、上に洗濯場があり、そこから管で水を蒸気室に運んで、その蒸気を管で蒸気消毒室や浴室に運んでいたようです。その他、消毒室、石炭置場、上等浴室、下等浴室があります。浴室にはそれぞれ消毒人溜所があり、また手荷物置場、事務局、在来浴室もありました。井戸が一か所あるほか、下水道も設けられていました。
なお、避病院は見当たりませんので、別の場所に設けられていたようです。

出典:「兵庫消毒所之図」国立公文書館所蔵

上等浴室部分

図の上半分は「上等浴室」の平面図です。
建坪は52坪ありました。
中央に廊下があり、各室に湯桶がありました。
右下の「消毒室」は7坪、左下の「蒸気室」は20坪ありました。

出典:「兵庫消毒所之図」 国立公文書館所蔵

上等浴室部分

避病院の平面図です。
3棟381坪の平屋建ての和洋造りでした。
各棟には廊下やトイレ・浴室が設けられ、棟から下に伸びた先にトイレと湯桶がありました。
また、利用者を二区分(上等・下等)に分けていました。
さらに平面図の左上に医局が、左下に看病人休息室が、右下には入棺場・死室が書かれています。
建物の周りには塀が設けられていました。

出典:「兵庫消毒所之図」 国立公文書館所蔵

参考文献

検疫制度百年史(厚生省公衆衛生局)
検疫制度100周年記念誌(昭和54年7月(財)日本検疫衛生協会)
内務省衛生局年報(国立国会図書館所蔵)
内務省記録材料・行程報告(国立公文書館所蔵)
横濱開港50年史(明治42年5月横濱商業會議所)
横濱毎日新聞明治11年11月16日、明治12年7月6日
東京日日新聞明治12年7月2日、明治12年9月1日、明治12年9月4日
海軍衛生制度史(昭和5年12月27日海軍軍醫會)
長浦消毒所移転該敷地海軍用地へ編入の件(国立公文書館アジア歴史資料センター)
相模国横須賀の図(明治6年)(国立公文書館)
昭和5年神奈川県三浦郡田浦町地番反別入地地図(神奈川県立公文書館所蔵)
兵庫消毒所之図(国立公文書館所蔵)
横須賀港弌覧絵図(神奈川県立図書館所蔵)
横須賀港独案内(明治21年 横浜開港資料館所蔵)